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2011年3月29日 (火曜日)

地震と現在まで。その2

ハローワークは正式な避難所では無かったが、沢山の人が居た。3階建ての建物の上まで。自家発電があったので明かりは少しあった。しかし食料は無く、せいぜい水だけ。11日の夜はほぼ水だけで過ごした。夜中には緊急地震速報が出て外に避難したがその時は体がすぐに震える程の寒さ。そして南浜町方面は火事で赤く染まった煙が夜明けまで続き、防災無線で大手町、日和が丘の住民に避難勧告が発表された。そのまま延焼し、ハローワークまで炎がくる予感がしてほとんど眠らないまま夜明けになった。

次の日は周りの様子を見るために立町方面を見てきた。

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ほぼ壊滅。立町方面の津波はそれほど水位が高くなかったようだが勢いは有った様でこんな状態。

大好きな飲屋街が全て津波にのまれていました。

一度ハローワークに戻り、イギリス人の通称ボビーを残し、今度は嫁さんと門脇付近に行ってみた。

行く途中、嫁さんの母親に会った。ハローワークに避難しているのをメールしていたので様子を見にきたらしい。

嫁さんの母親の職場は病院で、門脇の川っぷち。病院の1階天井付近まで津波がきたらしい。急いで上の階まで患者を上げ全員無事だったようだ。

病院まで一緒に降り、その後日和山経由でハローワークに戻ったがその時に写真を撮った。

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シーバスの聖地、中瀬には自由の女神と漫画館だけがまともに残っていてそれ以外の建物はぶち壊れていた。地面も流されて釣りの時に駐車していた場所は無く、釣りの時立つ場所はわずかに残っているのみ。悲しくなった。

内海橋も昔のチリ地震津波の記事を見た時と同じ様な状況。思い出のあるライブハウス、ラストラーダにも船が刺さっている。

そして、日和山に登り火事が起きていた南浜町を見て絶句。焼け野原。爆弾でも落ちたのかと思う程。

そこから泣きながら景色を見ている人が沢山いたのでとても写真を撮る気にはなれませんでした。

こんな事が自分が生きている間に起こるとは夢にも思いませんでした。

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地震と現在まで。その2を参照しているブログ:

コメント

katanaさん>知人の方は良くその状況で生還しましたね!驚きです。まさに地獄からの生還。地震後、日和山へ非難して下さいと防災無線でアナウンスされていましたが、立町や小柳町付近経由で日和山を目指したらアウトだったかも知れません。まず車の移動は絶対にしたく有りませんでした。
徒歩で一番近いと真っ先に思い浮かんだのが中嶋外科付近。

駅前北通りからの非難でしたが、津波に浸かる事なく他の二人と逃げる事が出来たのは幸運でした。

前回から拝見しました。

まさきさんもギリでしたね。

寸で運命が変わった方の話を多々耳にしますが、これだけの規模の震災にも拘らず、多くの生存者がいる事自体が奇跡的だと思います。

その場その場でのタイミングが人の生死を分け、現在生存しているという意義や意味が日に日に僕の気持ちの中でその重みを増しています。

ちなみに、写真の自由の女神前、知人宅の2階部。

当の本人は家ごと、港湾病院付近から中瀬まで流されたものの、写真のとおり2階は破壊されなかっため奇跡的に一命を取り留めました。

半島方面もひどい様です。佐須の浜の航空写真を見たら山の上の方の民家まで津波がいった様でした。渡波の親戚の家は廊下だけ残って2階部分が300メートルくらい流されていて1階は跡形も無くなっていました。前に釣りに行った沖防波堤には船がのっかっているみたいです。あり得ませんね。釣った魚を食べながら酒を飲む日はいつになるかわかりませんが、仕事以外にもやる事は色々ありそうです。

本当に夢にも思いませんでしたね。

誰もがこんな事になるとは思いもしなかったでしょうね。

昨日自分もボートを探しながら少し見て来ましたが、あまりの凄さに呆然としました。

一歩ずつ、いや、半歩ずつでも良いから前進しましょ!
犠牲になってしまった方々の為にも復興を成し遂げましょう!

そして、また笑顔で釣りが出来る事を願って!

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